経済で読み解く日本史③ 江戸時代【5. 江戸時代の経済政策】

世界最強の資本主義経済を作りながら、石高制によって限界を迎えた徳川幕府。
民需主導の経済発展が幕藩体制を崩壊へ導いた。

今回紹介する本

経済で読み解く日本史③ 江戸時代

出版社: 飛鳥新社
発売日:2019/5/24
単行本:280ページ(全6巻1656ページ)
著者:上念 司
1969年、東京都生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。
在学中は創立1901年の日本最古の弁論部・辞達学会に所属。
日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て独立。
2007年、経済評論家・勝間和代氏と株式会社「監査と分析」を設立。取締役・共同事業パートナーに就任(現在は代表取締役)。
2010年、米国イェール大学経済学部の浜田宏一教授に師事し、薫陶を受ける。
金融、財政、外交、防衛問題に精通し、積極的な評論、著述活動を展開している。

目次

この本を読むきっかけ

ハウツーやハックといった実用書を好んで読んでいましたが、それなりのレベル感の本(初心者を対象にしていない)を読むにつれ、著者がフツーに使用する歴史的エピソードや逸話、語彙・表現などが私には分からないことが多すぎて知識がないことにショックを受けました。
仕事上の知識獲得のためいつも選ぶジャンルである「経済」に加えて、これから学びたいと思っている「歴史」が一緒になっているタイトルでこの本を選びました。
上念さんはメディアでよく拝聴・視聴させていただいていたこともあり「入りやすいかな」と思ったのもきっかけです。
しかし、

「貧農史観」を捨てよ

日本人の多くが江戸時代に対して持っているイメージは、学校教育、「カムイ伝」や「水戸黄門」とったテレビ番組・映画の時代劇によって完全に固まっています。そのイメージを一言で言うと「貧農史観」です。

教科書では「厳しい身分制度による差別」「貿易振興から鎖国へ」とネガティブな記述が続きます。ところが、その次には「農業や諸産業の発達」としてポジティブな内容へ。
・・人々は厳しい身分差別を受け、幕府は鎖国のような閉鎖的な政策をやっているのに、なぜ経済が発展するの?と疑問に思うところですが、大抵の中高生はここをスルーします。

また「17世紀末には元禄文化が栄えた」と書いてありますが、「1716年徳川吉宗が将軍になったとき、幕府は財政難に苦しんでいました」とあります。
・・さっきまで元禄文化が栄華を極めていたのに、いきなり財政難!?とツッコミをいれたくなった人もいるでしょう。

歴史の教科書にはその点について満足な説明はなく、無味乾燥な事実だけです。
テストに出題される以上、受験を控えた中高生はそう覚えるしかありません。
入試をターゲットにした歴史教育として、教員もそう教えなければ保護者からクレームがきます。
日本の歴史教育を大きく歪めている元凶は、社会にスケジュールとして組み込まれた入試制度そのものなのです。

江戸時代を理解する3つのキーワード

財政構造

徳川家は400万石しかないのに、3,000万石の日本全体を治めなければならない

管理通貨制度

たとえ瓦礫(がれき)のごときものなりとも、これに官符の捺印を施し民間に通用せしめるならば、すなわち貨幣となるは当然なり

社会制度

百姓は農民に非ず
庶民=百姓ですが、決して農民と同義ではなく、たくさんの非農民業を含んでいました。
百姓の内訳は、専業農民と、過半数以上を占める非農民(商業・運輸業・サービス業)でした。

なぜ江戸幕府はいつも「財政難」なのか

徳川家は3,000万石分の中央政府の役割を果たさなければならないのに徴税権が400万石分しかなかったことが、幕府の慢性的な財政難の根本原因でした。

江戸初期の財政政策

家康が最初に行ったことは、全国のめぼしい金山・銀山をすべて接収したことです。
そして、貨幣の鋳造・発行権を獲得し、ついに日本は本格的な自国通貨を鋳造、流通させることができるようになりました。

金貨:慶長大判、慶長小判、慶長一分銀
銀貨:慶長丁銀、慶長豆板銀

3代将軍 家光(1623~1651)になると、家光の浪費により5,000万両のばら撒きが行われました。
家光による浪費は、いわば「公共事業」と同じ効果があり、結果として大規模な金融緩和と財政政策になりました。
しかしバラマキから20年後の1643年には金・銀の埋蔵量が底をつきます。

江戸幕府は現状維持勢力からの支持によって成立しましたので、年貢の取り立てというのは各地にいる大名の権利であり、それを取り上げることはできませんでした。
徳川家は中央政府を代表していながら、徴税権は自分の領地にしか及んでいなかったのです。

家光は一代で500万両を使って亡くなりました。
4第将軍 家綱(1651~1680)はそれでも600万両を相続することができましたが、もう金銀の埋蔵量は枯渇しています。「600万両を使い切ったら終わり」という過酷なゲームが始まりました。

明暦の大火

1657年におこった「明暦の大火」によって、被災者の救済と復興のために幕府は多額の財政支出を行いました。

この未曾有の大災害に陣頭指揮したのが、3代将軍 家光の異母弟で、4代将軍 家綱の後見役となった会津藩 保科正之でした。

  • 大火直後から約1カ月粥の配給。1000俵/1日(約52.5トン)
  • 合計6000万石(約900トン)の米を放出
  • 町民に下付金 銀1万貫目、金約16万両
  • 罹災した大名に銀100貫目以上の「恩貸銀」返済期間10年の低利融資
  • 罹災した旗本・御家人に「拝領金」罹災手当支給
  • 材木商が値上がりを見込んで材木を抱え込まないよう「大名屋敷は再建しない」という噂を流しては材木価格を暴落させる
  • 米の値上がりをアテにして売り惜しみし、米価が高騰しないように八丁堀で米の大バーゲン など

年貢米収入だけで支払いきれなかった分を相続財産から払い、5代将軍 綱吉(1680~1709)が相続した財産は100両を切っていました。

「管理通貨制度の本質」を理解していた荻原重秀

幕府の毎年のキャッシュフローは「赤字」です。年貢米による収入から様々な支出をすると、毎年10万両が不足します。
5代将軍 綱吉(1680~1709)が相続した遺産をこれに充当したとしても、理論的には10年以内に財政破綻することが明白でした。
そこで当時吟味役だった荻原重秀が「貨幣改鋳」を提案します。
2枚の慶長小判から3枚の元禄小判を作り、貨幣量が1.5倍に増加、さらにシニョレッジ(通貨発行益)を得ることができ、幕庫に500万両もの財政黒字をもたらしました。

改鋳によるインフレも年率3~2%程度とのことでした(1695~1706の11年間)

出典:「勘定奉行荻原重秀の生涯―新井白石が嫉妬した天才経済官僚」村井淳志/集英社

しかし災害や火事が襲います。

1703 元禄地震
1707 宝永地震(南海トラフ地震)、富士山大噴火
1708 宝永の大火(京都)

予期せぬ財政負担に財政黒字も瞬く間に底をつき、復旧費用が足りず諸藩に資産課税を行う「諸国高役金令」が出されました。

幕府が徴税権を持たないという初期設定のミスは、通貨発行益だけでは完全に解決することはできなかったようです。
また災害や火事などが発生すれば、予想できない突然の大規模財政支出が必要となります。
現在なら、復興国債を発行して資金調達し、将来世代にわたって負担を平準化しますが、もちろん当時そんな発想はありませんでした。

新井白石による財政緊縮政策「正徳の知」

1709年綱吉が亡くなると、新井白石が台頭し荻原重秀は勘定奉行を罷免されてしまいます。
新井白石は、金銀が流出したことが幕府の財政問題の本質であり、流出を止めることで財政が立て直せると思いこんでいました。
そして小判の品質を元に戻す貨幣改鋳「正徳金銀」が行われました。

結果、貨幣の価値が上がりすぎてデフレに陥り景気が低迷、米価が下がり武士が貧乏になりました。

人々は毎年少しずつ賢くなるため生産量はじわじわ増えていくにもかかわらず、お金の量を減らしてなるべく使わないようにしたら、自然な経済成長も過剰生産ということになってしまいます。

白石がとらわれていた頑迷な考えを「貴穀賤金」と言います。
「農作物は貨幣よりも貴く、お金は賤しいものだ。だから農業以外の産業は仮の需要でありバブルである」という極めて間違った考え方です。
しかし「貴穀賤金」はその単純さゆえに、昔から多くの知識人を魅了してきました。

白石は「景気が良い状態=異常な状態である。なぜなら山師みたいな連中たちの羽振りがよくなるからだ。けしからん!」と考えていたそうです。

「緊縮財政をする政治家は真面目。逆に財政支出を増やす政治家は不真面目でけしからん」
「国民に増税という苦い薬を飲ませる政治家はいい政治家」
と、新井白石のような話をする人は現在もいます。

吉宗による「享保の改革」

8代将軍 吉宗(1716~1745)になると真っ先に新井白石を失脚させました。

吉宗の行った「享保の改革」も当初は白石と同じく「質素倹約」「贅沢禁止」であり「緊縮財政による財政健全化」を目指すといった誤ったものでした。
もちろん「貴穀賤金」的な考え方にも支配されていました。
なぜなら、当時武士の給料は米の現物支給によって支払われており、「貴穀賤金」的な発想に陥ってしまうのは仕方ない面もありました。

吉宗の行った「治水工事」や「新田開発」を奨励し生産性を高める政策で、米の生産量は飛躍的に増加しました。
しかし、お給料である米を市場で売って現金を得て、米以外の生活物資を買っていた武士にとっては、米の生産量増加が、長期的な米価上昇につながりませんでした(逆に米価下落要因となる)

その他吉宗の行った政策は

  • 各藩に対して「上米の制」や「参勤交代の軽減」
  • 農民に対して「定免法」や「五公五民」などの増税
  • 1730年 大阪堂島米会所を公認(米価市場をコントロールしようとした)

1736年大岡忠相の進言により「元文の改鋳」が行われ、それによって米価も上がり、経済は安定しました。

田沼意次の「重商主義」

9代将軍 家重(1745~1760)、10代将軍 家治(1760~1786)に仕えたのが田沼意次です。
田沼意次は、自由な商売を奨励し、公共事業によって干拓や道路整備を進めることで初期資本主義のインフラを整備しようとしました。
享保の改革の頃に結成された「株仲間」に商売の独占権を与え、その代わりとして、運上・冥加(うんじょう・みょうが)と呼ばれる営業税・営業免許税を納入させました。
そのほか鉱山の開発、印旛沼や手賀沼の開拓、蝦夷地の開発計画、対清貿易のための産品開発なども行いました。

「寛政の改革」31年間にわたる緊縮財政

1786年に10代将軍 家治が死去すると、意次は失脚し、経済政策にも大きな揺り戻しが起こりました。
この揺り戻しこそが松平定信が行った「寛政の改革」です。
定信が死んだ後も「寛政の遺老」という頑迷な幕臣が権力を握り続け、1817年に松平信明が死ぬまで約31年間にわたって緊縮政策が続きました。

水野忠成のリフレ政策

寛政の遺老の重荷がとれた家斉は、人事を刷新し水野忠成が就任します。
経済政策は一気に緊縮モードからリフレ政策へと転換しました。
1818年には元文の改鋳から80年ぶりとなる「文政の改鋳」が行われました。
その後1834年に死去するまで何度も改鋳を行いました。このことによって江戸の町には空前の好況が訪れます。これが歴史の教科書にある「化政文化」の正体だったのです。

1841年に家斉が死去すると水野忠邦が寛政の改革を踏襲する緊縮政策「天保の改革」を始めてしまいました。
当時の日本を取り巻く環境は、欧米列強による「帝国主義」と「植民地支配」という苛烈なものでした。
緊迫する国際情勢の中で緊縮財政のお遊びをやっている暇はなかったのです。

感想

私も知らずに「米(農作物)は貴く、質素倹約を目指すことが正しい」に染まっていました。
学校の教科書にもそのように誘導するようなことが書いてあるし、学校の先生もそのように教えていた気がします。
よくよく考えれば「そんなに切り詰めることだけ考えて、経済成長したり豊かになることはあるの?」って感じです。
経済成長に合わせて貨幣量を増やした(改鋳)タイミングで、経済が安定したり文化が反映することが符合していることが明らかになりました。
著者が一貫して主張する「経済はお金の量できまる」を、根拠をもって理解することができました。

この記事を書いた人

FPあちこのアバター FPあちこ 1級ファイナンシャル・プランニング技能士

保険や投資信託などの金融商品の販売はしないコンサル専業FPです。
「読書好き」と言うわけではありませんが、コンサルのこと、自己啓発のこと、人生のことなど、"知りたいこと"や"課題解決"の目的があって本を読んでいるので、基本的にビジネス書やハウツー本です。
当ブログは、完全ネタバレの自分自身のための覚え書きのために作成しております。

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