人々は経済的に困窮すると、過激思想に救済を求める。
金本位制は通貨供給不足になりやすいデフレレジームのため、世界経済は繰り返し恐慌に見舞われ、そのたびに過激思想が台頭した。
秩禄処分への不平士族の「お金の恨み」が日本を対外戦争に駆り立て、新聞に煽られた世論はやがて英米と離反・対決する道を選んでしまう。

経済で読み解く日本史④ 明治時代
出版社: 飛鳥新社
発売日:2019/5/24
単行本:248ページ(全6巻1656ページ)
著者:上念 司
1969年、東京都生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。
在学中は創立1901年の日本最古の弁論部・辞達学会に所属。
日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て独立。
2007年、経済評論家・勝間和代氏と株式会社「監査と分析」を設立。取締役・共同事業パートナーに就任(現在は代表取締役)。
2010年、米国イェール大学経済学部の浜田宏一教授に師事し、薫陶を受ける。
金融、財政、外交、防衛問題に精通し、積極的な評論、著述活動を展開している。
この本を読むきっかけ
ハウツーやハックといった実用書を好んで読んでいましたが、それなりのレベル感の本(初心者を対象にしていない)を読むにつれ、著者がフツーに使用する歴史的エピソードや逸話、語彙・表現などが私には分からないことが多すぎて知識がないことにショックを受けました。
仕事上の知識獲得のためいつも選ぶジャンルである「経済」に加えて、これから学びたいと思っている「歴史」が一緒になっているタイトルでこの本を選びました。
上念さんはメディアでよく拝聴・視聴させていただいていたこともあり「入りやすいかな」と思ったのもきっかけです。
しかし、

秩禄改革
- 1871 版籍奉還/秩禄改革
- 1872 国立銀行条例
- 1873 徴兵令
- 1873 地租改正
- 1874~1878 金貨・銀貨・藩札の回収
秩禄改革(1871年)
多重債務を抱えた大名たちにとって、廃藩置県によって、領地を手放すかわりに借金帳消しとなることは十分なように思えますが、新政府はこれに加えて大名たちの将来的な生活を保障すべく、大名に現石の1割を支給することにしました(秩禄改革)
表石高・・検地によって定められたコメの収穫量をベースとした石高
現石・・表石高に諸色(米以外の商品作物)の収穫量をコメに換算して加えた実際の石高
江戸時代の平均的な税率は名目上収穫(表石高)の4割(四公六民)でしたが、課税対象外の諸色を加えて計算した場合の実効税率は、百姓の全所得の1~2割程度だったと言われています。
かつて大名は税収の中から家臣団への秩禄を支払、インフラ工事や江戸屋敷の維持費も捻出していましたので、現石の1割は大名たちのこころを動かしてあまりあるものでした。
幕府の家臣団(旗本・御家人)や大名の家臣たち(士族)は、幕藩体制が消滅したことで、彼等が禄をもらい続ける理由も消滅しました。
1873年には、国民皆兵を実現するための徴兵告諭が布告、その次の年には徴兵令も出され、士族が今後秩禄をもらい続ける理由が見当たりませんでした。
ところが、秩禄改正で華族と士族の秩禄は平均38%減額(士族に限っては44%減)で支給継続することになりました。
政府が秩禄支給停止で社会問題になると考えていたからです。
明治以降の秩禄の支払も江戸時代同様にコメによる支払いでしたが、地租改正によってコメによる支払が続こうはずがなく、「居候」「無為徒食」といった批判が並び、国民の士族への目は厳しくなりました。
廃藩置県が行われた1871年の段階で、秩禄の支給総額は財政の38%を占めていました。
地租改正(1873年)
徳川幕府を弱体化させた最大の原因は石高制でした。
地租改正はコメを物納する旧来の制度を廃止し、現金納税という近代的なやり方へ移行を実現した画期的な改革です。
豊作凶作にかかわらず、土地の所有者が地価の3%を現金で納税することになりました。
中世的な年貢は、この改革を経て現代的な意味での固定資産税へと進化したことになります。
- 1873 明治六年の政変
- 1873 家禄税の創設と家禄奉還制度
- 1876 廃刀令/金禄公債証書発行条例/国立銀行条例
- 1877 西南戦争
- 1878 三新法 →地方自治の民主化
- 1882 日本銀行設立
- 1885 内閣制度創始
- 1889 大日本帝国憲法発布
秩禄の縮小(1873年)
1873年征韓論問題をめぐって政府が分裂した後、政府は大久保利通を中心に政府を建て直し、国内改革を進めます。
1873年に家禄税の創設と家禄奉還制度が相次いで決定されました。
- 家禄税
-
支給禄高五石以上(全華族の94.4%)に対する累進課税です。
家禄(秩禄)はあくまで特権なので、国の大事に際してその一部を拠出せよという趣旨で、家禄総額(468万石)の約11%が税金として徴収されることになりました。 - 家禄奉還制度
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家禄100石以下の者を対象とした家禄放棄とそれにともなうボーナスの支給に関する決まりです。今でいうところの早期退職制度に似ています。
家禄の奉還希望者には6年分の現金と秩禄公債(年利8分)が支給され、さらに将来農業を始める際に使える土地(おもに山林荒無地)を定価で払い下げる優遇措置も実施されました。
強制ではなかったものの、全国で24%の士族がこれに応募し、禄高の4分の1(約109万石)を整理することができました。
秩禄の全廃(1876年)
1876年3月に廃刀令が布告され、8月に最終的な秩禄処分策として、金禄公債証書発行条例が制定されました。
禄制廃止と引き換えに、政府は華士族に金禄国債を交付し、今後はコメの現物支給ではなく金利の支払いによって秩禄に代替することが決まったのです。
不換紙幣の整理と金融の疎通を図って1872年に制定された国立銀行条例を利用して、 各地の華士族が金禄公債証書を設立資本として銀行を設立しました。現在でも「第○銀行」という名前で残っていたりします。
銀行が設立できるほど多額の国債をもらえた華族は全体の0.17%(2018年12月野村総研調査の日本における金融資産5億円以上の超富裕層の割合0.16%と極めて近い数字)
全体の9割以上を占める下級武士たちの年収は60万円弱(月給で5万円弱)でした。
そしてついに士族の不満は爆発し、1877年西南戦争が起こりました。
士族の反乱と農民の一揆が一体化することを恐れ、明治政府は地租を地価の3%から2.5%に引き下げ、民費(地方税)の上限を地租の3分の1から5分の1に減税しました。
西南戦争の戦費調達のため、金との交換レートを無視して紙幣(明治通宝)の増刷も行わった結果、インフレとなり米価が上昇しました。
米価の上昇は実質的な地租の軽減となり、人々に経済政策のレジームチェンジを確信させ、一揆は下火になりました。
この頃から米価高騰と地租軽減で豊かになった地方豪農がスポンサーとなり自由民権運動が盛んになっていきます。
1878年「三新法」が制定され、地方自治の民主化が始まりました。
金本位制への道のり
新政府の徴税システムの大欠陥
西南戦争終結後、3年程度は好景気が続いていました。
大減税と貨幣増刷に加え、1878年から貿易一円銀貨の国内無限流通が認められるようになりました。
しかし、減税とインフレは当時の政府の財政基盤を直撃していました。
地租は現代の固定資産税に当たりますが、今の政府の主要な財源である所得税(1887年から)、法人税(1899年から)、消費税(1904年から石油織物対象)はこの時期にはまだ存在すらしていなかったのです。
貨幣量でみる「松方デフレ」の実態
当時大蔵卿の大隈重信はインフレ対応として、地方への支出抑制、間接税の増加、横浜正金銀行の設立などを行って政府資金の蓄積に尽くし、物価上昇は鈍化していきました。
しかし、1881年の明治十四年の政変で、大隈重信が失脚し、松方正義が参議兼大蔵卿に就任すると、増税による緊縮財政を実行します。(松方デフレ)
たばこ税・酒税の増税と官営事業の払下げ(政府資産売却)です。
この頃、朝鮮半島における清国との対立がエスカレートし、軍事支出は削減できませんでした。
円の信用を維持するため、無理やり輸出を増やして、輸入を減らし貿易黒字を作って金(ゴールド)確保に努めました。
1885年から輸入超過、財政支出も黒字基調となり、緊縮政策を少し緩め円安に振れることを容認しました。
渋沢栄一が評価した貨幣制度
1870年代に各国が金本位制に移行したことで、世界各国は総じてデフレ基調となり景気が低迷しました。
1873年に発生した金融恐慌はヨーロッパ・アメリカを混乱に陥れました。
日本では1878年に貿易一円銀貨の国内無制限流通を認める政策判断をしたため、金本位制の欧米列強が売った大量の銀が自動的に日本の貨幣量を増加させる効果を持ちました。
1878年の国民所得は総額で4億100万円でしたが、1903年には22憶6200万円と、四半世紀が5倍になりました。
このあと1890年に大日本帝国憲法が発布され、第一回帝国議会が開催されました。
ついに日本は立憲民主制の国として形を得たのです。
経済で読み解く日清・日露戦争
- 1894~95 日清戦争
- 1897 金本位制を施行
- 1899 日米通商航海条約 発効
- 1902 日英同盟成立
- 1904~05 日露戦争
- 1910 韓国併合
- 1911 日米新通商航海条約 調印(関税自主権回復・条約改正完成)
1858年 江戸幕府が締結した日米修好通商条約は、領事裁判権と関税自主権の二点で不平等なものでした。明治政府は条約改正に努力し、1894年 日米通商航海条約で領事裁判権の撤廃に成功しました(実施は1899年)
1899年の日米通商航海条約の改定によって残る関税自主権の回復も達成されました。
経済で読み解く日露戦争
1894~95年の日清戦争で2億両(1両=37.58g)当時のレートで3億円の賠償金を得たことで、日本は1897年に金本位制に移行しました。
1886年に南アフリカ、1896年にカナダで金山が発見され、金本位制の国では貨幣量が増えて景気が良くなります。
1900年ごろからロシアの南下が始まりましたが、イギリスはボーア戦争にかかりきりのため、1902年に日本と同盟を結び、アジアの植民地の守りに日本を利用しました。
1904年、日本は仁川沖と旅順港のロシア艦隊を奇襲し、宣戦を布告しました。
日清戦争においても戦費不足ははなはだしくその52%を公債に依存しましたが、日露戦争におけるその比率は実に78%でした。これをすべて日本国内で調達することは不可能であり、外債の起債に頼らざるを得ませんでした。
日銀副総裁の高橋是清がロンドン市場で起債にあたりましたが、日英同盟下にありながら日本は世界の金融市場における信用度の低い小国としてしか認識されておらず、資金調達は難航しました。
起債をまとめる手伝いをしてくれたのがカッセル卿の友人で、たまたま在英中の米国のクーン・ローブ商会の上席パートナーであるJ.H.シフが引き受けを申し出てくれました。
米国ユダヤ人協会会長としてのシフは、特別の関心を日露戦争の帰趨に寄せており、日本政府の外債発行を米国で引き受ける決断にいたりました。
結局日本政府は、日露戦争の戦費調達のため6度外債を起債し、GNPの6割の額となりました。
日露戦争は、日本優位を占めたものの、日本は軍事費を使い果たしており、ロシアは「血の日曜日事件」など、国内の社会主義革命運動のため本国の主力軍が出動できず、ともに戦争の継続が困難な状態に陥りました。
同年9月、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの勧告により、アメリカのポーツマスで講和会議を開きました。
「ポーツマス条約」の内容とは、ロシアは朝鮮から撤退、長春以南、旅順・大連までの南満州の権益を認め、雑居地だった南樺太の日本の領有も認めましたが、賠償金なし、領土も割譲なしでした。
戦争の目的だったロシアの南下阻止も達成され、満州を緩衝地帯とすることができました。
講和反対から日米対立へ
日露戦時下の増税等による生活苦や戦争で多大な犠牲が生じたことで、戦争で得られた果実を独占して当然だと新聞は人々を煽り、不満を抱いた民衆が日比谷公園で行われたポーツマス条約に反対する集会をきっかけに暴動事件が発生しました。(日比谷焼き討ち事件)
日本が南満州鉄道経営権を得たことで、中国大陸進出の機会をうかがっていたアメリカで鉄道王といわれたハリマンは、南満州鉄道の共同経営を申し出ました。
1905年10月、桂太郎首相とハリマンとの間に南満州鉄道の日米共同経営に関する予備協定が結ばれました(桂ハリマン協定)
「ロシアの独占から満州を開放し、機会均等を実現する」という大義名分で戦っていた日露戦争でしたので、イギリスやアメリカは日本の公債引き受けを手伝ってくれました。
戦争で得た満州の権益は、本来戦争に協力してくらた英米と分割すべきでした。
しかし、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎外相の強い反対で、桂ハリマン協定は1906年1月に破棄されました。
ハリマンは在米特使の高橋に対し、「いまから十年のうちに日本は、米国との共同経営をしなかったことを悔いる時が来るであろう」と語り、日米戦争の遠因のひとつになったと言われています。
1906年3月、全国的な鉄道網を官設鉄道に一元化するという大義名分で私鉄を国有化する鉄道国有化法が公布されましたが、実際は外国人の出資を排除するためでした。
戦費調達でお世話になった欧米の投資家、英米政府を落胆させ、対日世論は悪化していきました。
感想
学校の歴史の授業では、明治維新とともに侍がいなくなり、急に日清日露戦争に突入している印象がありました。
侍がいなくなる過程では、秩禄の扱いをどうするかは非常に重要なことですよね。秩禄の取り扱いから派生して西南戦争が起こったり、銀行の設立があったり。その前には経済政策として廃藩置県があったことは新しい視点を得ました。
日露戦争の戦後処理の中で、日米対立の萌芽が芽生えていたことも新しい認識でした。
あいまいになっていたままスルーしていたことを学び直し、とてもスッキリした感じです

