デフレの長いトンネルとリーマンショックで14万人もの自殺者を生んだ元凶は何だったのか?バブル崩壊からアベノミクス、そしてコロナ禍の令和へ!
今明かされる「失われた30年」の真実。平成を正しく理解した者だけが令和時代を生き残れる。

経済で読み解く日本史⑥ 平成時代
出版社: 飛鳥新社
発売日:2020/7/17
単行本:302ページ(全6巻1656ページ)
著者:上念 司
1969年、東京都生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。
在学中は創立1901年の日本最古の弁論部・辞達学会に所属。
日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て独立。
2007年、経済評論家・勝間和代氏と株式会社「監査と分析」を設立。取締役・共同事業パートナーに就任(現在は代表取締役)。
2010年、米国イェール大学経済学部の浜田宏一教授に師事し、薫陶を受ける。
金融、財政、外交、防衛問題に精通し、積極的な評論、著述活動を展開している。
この本を読むきっかけ
ハウツーやハックといった実用書を好んで読んでいましたが、それなりのレベル感の本(初心者を対象にしていない)を読むにつれ、著者がフツーに使用する歴史的エピソードや逸話、語彙・表現などが私には分からないことが多すぎて知識がないことにショックを受けました。
仕事上の知識獲得のためいつも選ぶジャンルである「経済」に加えて、これから学びたいと思っている「歴史」が一緒になっているタイトルでこの本を選びました。
上念さんはメディアでよく拝聴・視聴させていただいていたこともあり「入りやすいかな」と思ったのもきっかけです。
しかし、

バブル崩壊
| できごと | 総理大臣 | 日銀総裁 | 金融政策 (政策金利) | |
|---|---|---|---|---|
| 1985 | NTT民営化(4月) 男女雇用機会均等法(5月) プラザ合意(9月) | 中曾根康弘 | 澄田智 | ~5% |
| 1986 | 円高不況 | 中曾根康弘 | 澄田智 | 4月 3.5% |
| 1987 | NTT株公開(2月)※注2 国鉄分割民営化(4月) 財テクブーム バブルスタート | 中曾根康弘~11月 竹下登 11月~ | 澄田智 | 2月 2.5% |
| 1988 | リクルート事件(6月) ※注3 | 竹下登 | 澄田智 | |
| 1989 | 昭和天皇崩御(1月) 消費税導入(4月) 天安門事件(6月) ベルリンの壁崩壊(11月) | 竹下登 ~6月 宇野宗佑 6~8月 海部俊樹 8月~ | 澄田智 ~12月 三重野康 12月~ | 5月 3.25% 10月 3.75% 12月 4.25% |
| 1990 | 総量規制(1990.2~1991.2) 住友銀行イトマン事件 ※注4 大学入試センター試験開始 東西ドイツ統一(8月) | 海部俊樹 | 三重野康 | 3月 5.25% 8月 6.00% ※注1 |
| 1991 | バブル景気終了(2月頃) 野村証券損失補填事件 ※注5 ソ連解体(12月) | 海部俊樹 ~11月 宮沢喜一 11月~ | 三重野康 | 7月 5.5% 11月 5.0% |
| 1992 | 宮沢喜一 | 三重野康 | 4月 3.75% 7月 3.25% | |
| 1993 | 非自民連立政権成立(8月) EU成立(11月) | 宮沢喜一 ~8月 細川護熙 8月~ | 三重野康 | 2月 2.50% 9月 1.75% |
日銀不況と7つの事件
1986年の円高不況を乗り切り、1987年からバブルがスタートすると、生活に不満を感じる人は少数派でした。
1989年12月に日銀総裁に就任した三重野氏は就任早々12月に0.5%の利上げを実施しました。
そして翌1990年3月には、大蔵省による不動産融資に対する総量規制(不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることを目的として、大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導)が実施されたタイミングと同じくして1%もの大幅利上げを実施し、公定歩合は一気に5.25%まで引き上げられたのです。
1989年末、3万8915円をつけた日経平均株価はすでに2万6千円まで下落していましたが、日銀総裁 三重野氏は1990年8月、さらに公定歩合を0.75%上げました(※注1)
この追い打ち的な利上げによって日経平均株価はさらに約20%暴落し、同年9月末の終値は2万983円になってしまいました(三重野暴落)
消費者物価指数でみれば、日銀のバブル崩壊前の金融政策はむしろ適切な水準にありましたので、澄田時代の2度の引き締めで一旦打ち止めにして様子をみてもよかったのです。
三重野氏はインフレを極度に警戒するあまり過剰な金融引締めに走り、これを間違いとして修正できずに利下げを決断できませんでした。
三重野氏が実施した金融引締めは、日本経済を必要以上に傷め、長期停滞への入り口を開く「平成の大不況」の原因となりました。
株価が暴落し、不動産価格の上昇も頭打ちとなり、少し遅れて給料の伸びが鈍化・ボーナスも減額など実体経済に影響が出てきました。
バブルの崩壊の過程で、鬱積した人々の不満はたびたび爆発しましたが、そのターニングポイントが1993年頃だと考えます。
そのキッカケとは、人々のルサンチマン(恨み・妬みの心)を掻き立ててあまりある次の7つの事件に集約されるのではないでしょうか。
- 1987年 NTT株第一次売り出し →1989年暴落
- 1988年 リクルート事件 →1989年 竹下内閣総辞職
- 1990年 住友銀行イトマン事件(その他、いわゆる乱脈融資)
- 1991年 野村証券損失補填事件
- 1995年 住専問題と公的資金注入
- 1997年~98年 不良債権問題(三洋証券・拓銀・山一証券、長銀、日債銀が破綻)
- 1998年 大蔵省接待汚職事件
NTT株暴落
1987年のNTT株放出(※注2)がキッカケとなっていわゆる「財テクブーム」によって、それまで投資に縁のなかった一般の人が株式市場に大量算入してきました。
当時、政府もこの動きを「貯蓄から投資への動きだ」とばかりに後押ししていました。その背後には、日本を内需主導の経済に「構造転換」するため、マル優など貯蓄優遇策を止めるべきだという「前川リポート」の存在があります。
ところが1989年末の大納会を最後に、株価は本格的な下落を始めました。財テクブームに踊った人々は大変な損失を被り、それを煽った政府・日銀への不満はさらに高まりました。
リクルート事件
リクルートの創業者・江副浩正氏が、上場すれば値上がり確実な子会社のリクルートコスモス社の未公開株を、政界・官界の大物にタダで渡していたという汚職事件です(※注3)
1989年 竹下内閣は総辞職し、その後宇野宗佑内閣が成立したものの女性スキャンダルによって倒れ、代わって総理大臣になったのが海部俊樹氏でした。
海部氏のお陰で自民との支持率は回復し、国民の怒りも収まるかのように思えました。ところが、証券会社と銀行の不祥事が相次ぎ、再び国民の怒りに火が付いたのです。
イトマン事件
住友銀行の有力な取引先の繊維商社イトマンは、1970年代の石油危機で経営が悪化したため、住友銀行から河村良彦氏が社長として送り込まれました。
2年で黒字化を達成し、経営は順調に見えましたが、1985年のプラザ合意で円高が進むと再び経営は悪化、河村氏は総合商社への転換を図り、この難局を乗り切ろうとしました。
住銀の紹介でイトマン入りした経営コンサルタントの伊藤寿永光氏(山口組のフロント企業の代表)や、伊藤氏とつながりのあった許永中氏(在日韓国人で山口組や政治家に人脈を持つフィクサー)が、さまざまな投資話を河村氏へ持ち掛け、のちに住友銀行は5000億もの損失を被ったとされています。そのうち3000億円は闇社会に消えたと言われ、未だにその行方はわかりません(※注4)
護送船団方式と言われた大蔵省の銀行行政は基本的に性善説で成り立っており「不良債権であっても、最終的に損失が確定するまでは含み損であって本当の損失ではない」というのが当時の常識でした。
この事件をきっかけに、不良債権の分類と破綻の確率を対比させ、それに融資額を掛け合わせて引当金(将来発生する特定の費用や損失に備えるため、あらかじめ当期の費用として繰り入れて準備しておく見積金額)を割り出すという基準が作られました(1993年)
野村証券損失補填事件
野村證券と日興證券の大口客に対して行っていた損失補填問題です。
大企業の社債の起債で手数料をたくさん儲けていたために、営業特金(特定金融信託。顧客企業から資金運用を一任された証券会社が高い利回りを保証した)とファンドトラスト(顧客から資金を預かり、信託銀行の判断で運用・管理する金融商品)という仕組みを使って、彼らの損失を穴埋めしていました(※注5)
日米構造協議の圧力
1989年にベルリンの壁が崩壊し、91年ソ連崩壊、そして東欧諸国の共産党独裁政権が倒されていく中で、当時経済力2位の日本がアメリカの脅威として認識されるようになりました。
1989年に始まった日米構造協議は、日米包括協議にいたるまで7年間の長きにわたり戦うことになります。この間、政府および日銀は円安が進みすぎて「為替操作国」という非難を浴びないよう、アメリカとの通商交渉に支障をきたさない配慮をしていました。
1980年代後半から、購買力平価でみた適正レートに比べて約20~30%の円高が不自然に続いていた「円の足枷」はしつこく日本経済の足を引っ張り続けました。
日本がこの足枷から明確に脱したのはアベノミクスが始まる2012年以降になります。
ターニングポイントとなった1993年
| できごと | 総理大臣 | 日銀総裁 | 金融政策 (政策金利) | |
|---|---|---|---|---|
| 1993 | 非自民連立政権成立(8月) EU成立(11月) | 宮沢喜一 ~8月 細川護熙 8月~ | 三重野康 | 2月 2.50% 9月 1.75% |
| 1994 | 金利の自由化完了 政治改革法成立 | 細川護熙 ~4月 羽田孜 4~6月 村山富市 6月~ | 三重野康~12月 松下康雄12月~ | |
| 1995 | 阪神・淡路大震災(1月) 住専問題(※6) | 村山富市 | 松下康雄 | 4月 1.00% 9月 0.50% |
| 1996 | 金融ビッグバン | 村山富市 ~1月 橋本龍太郎 1月~ | 松下康雄 | |
| 1997 | 消費税3%→5% 三洋証券・拓銀・山一証券が破綻(※7) | 橋本龍太郎 | 松下康雄 | |
| 1998 | 大蔵省接待汚職事件(※8) 長銀・日債銀破綻 インターネット証券会社の新規参入が認められる | 橋本龍太郎~7月 小渕恵三 7月~ | 松下康雄~3月 速水優 3月~ |
1990年から93年にかけて経済成長率は名実共に急減しています。1993年はついに実質経済成長率がマイナスになりました。
日経平均株価は下がり続け1992年3月ついに2万円割れとなりました。そして不動産価格も1991年をピークに下落を開始していました。
多くの人はバブル崩壊で給料も減り、ローンを組んで買った住宅の価格も下落、手持ちの株も塩漬けになっています。国民の怒りが噴出して当然です。
7つの事件のうち4つ目が終わった後、その怒りは一度大爆発しました。
なんと、それまで38年続いた自民党政権が倒れてしまったのです。
1993年7月、自民党は衆議院選挙で大敗し、非自民連立政権である細川内閣が誕生しました。
「経済的に困窮した人々は、救済を求めて危険思想に走る」通りの展開でした。
1994年、連立与党を離脱した社会党は、なんと38年間にわたって敵対し続けた自民党と大連立を組みます。
政権に返り咲くことを最優先した自民党は、ここで社会党に大きな妥協をしたと言われるのが後世に害悪しか残さなかった村山談話です。
しかし社会党も自民党に大幅な妥協をし、自衛隊合憲、日米同盟尊重、原発肯定とし、結果として社会党の支持基盤を減少させました。
最悪のタイミングで消費税増税
1995年1月阪神淡路大震災が発生しました。即座に復興予算が組まれ、執行されたことに加え、日銀はこの当時、1991年以降のペースが遅すぎる利下げを続けていました。
1995年4月に公定歩合はバブル期を下回る1%まで引き下げられ、同年9月には0.5%まで引き下げられました。
財政の大盤振る舞いと金融緩和の効果で、日本経済は束の間の回復を見せますが、1994年11月、消費税を5%に増税する法案を成立させてしまいました。
この既定路線は変更されることなく、橋本龍太郎内閣に引き継がれました。
橋本首相は1995年、96年の景気回復を過大に見積もり、大蔵省の「今増税しないと財政破綻する」という「ご説明」に簡単に納得してしまいました。
1997年4月に消費税は3%から5%に増税され、これが景気への冷や水となり、この時を境に日本はデフレの罠に陥りました。
さらに、この時を境に名目GDP成長率から実質GDPを引いたGDPデフレーターはマイナスとなりました。2012年まで続く長く苦しいデフレトンネルの入り口でした。
住専問題
1995年3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生しました。狂信的な宗教団体がハルマゲドンそのものを起こそうとした恐ろしい事件でした。
経済の面では、経済ハルマゲドンの入り口とも言われる「住専問題」が発覚しました(※注6)
※住専
「住宅専門金融会社」の略称で、個人向けの住宅ローンを提供するノンバンクのことです。
その多くは銀行の系列会社で、バックについている銀行のことを「母体行」と呼びました。
1990年に大蔵省の総量規制が実施されると、母体行から住専への資金供給は制限を受けるようになります。
ところが、なぜか農協系金融機関だけが規制の対象外とされ、農協系金融機関から住専に多額の資金が流れました。
土地バブルは91年にピークをつけて不動産価格の下落は始まっていますので、このビジネスがうまくいくはずがありませんでした。
十分に土地価格が下がっても誰も買わない、借りない、その最大の原因は「景気が悪いから」です。
日銀は過剰な金融引き締め、政府(大蔵省)は総量規制に増税。民間企業は八方塞がりでした。
なけなしのお金で買った唯一の資産であるマイホームの価格が見るも無残に下落していきました。その住宅を担保にお金を貸していた住専がタダで済むはずもありません。
1995年、住専7社の総融資残高は約13兆円に達し、うち4分の3が不良債権になっていることが判明しました。
母体行は信用の低い顧客を住専に回しリスクを押し付ける傍ら、総量規制を回避し、優良顧客を自行で抱え込む一石二鳥を目論んでいたのです。
大蔵省が設けた総量規制の例外は、この住専に巨額の資金を呼び込んで銀行を救済するための陰謀でした。
住専7社の債務総額12兆6241億円のうち、農協資金(農林中金、信連、共済連)の合計は5兆5997億円で全体の44%を占めていました。
母体行が口をそろえて「農協の責任」を語り、マスコミがそれに乗って農協批判に追い打ちをかけました。
金融自由化で都銀も個人向け融資ができるようになると、母体行は住専の融資先のうち安定的な顧客は銀行ローンへの借り換えを薦め、リスクの高い債権は住専に押し付けました。そしてバブルが決定的になると住専への融資そのものを引き上げ、その肩代わりとして農協に目を付けました。
バブル経済の終末期に大蔵省は銀行に対して、住専を含むノンバンクへの貸し付けを制限する通達をだしているが、信連や共済連にはだしていません。農協系金融機関から住専への貸し付けに際しては、銀行局長が母体行に「農協に迷惑をかけない」という念書を出させましたが、印鑑はゴム印でよいとされました。
住専各社の社長には大蔵省出身者がずらりと名を並べており、こうした詐欺まがいの手を使ってまで大蔵省が農協の肩代わりを誘導していたのです。
銀行と大蔵省が結託して、天下り先確保のために農協をカモにしていたのです。
1996年、経営破綻した住専7社は清算され、それに伴う損失6兆5000億円の穴埋めに6800億円の公的資金が投入されました。多くの国民はこのそちに怒りを覚えました。
「ゆとりローン」の悪夢
この不動産バブルの崩壊を商売にしていたのが、不動産会社です。
まだマイホームを所有していない人にとっては不動産価格も下落し、住宅ローン金利も安く、魅力的なでした。
住宅ローンは、マイホームを担保に取り、借り手の負担で生命保険までかけさられるため、銀行にとっては極めてリスクの低い融資だと考えられていました。バブル崩壊で貸出先が先細る中で、住宅ローンは銀行収益の柱になっていきます。
しかし、景気悪化で人々の賃金が伸び悩み始めると、銀行は大蔵省と組んで1992年から「ゆとりローン(ステップローン)」という返済スキームの制度を始めました。
最初は金利を安くして(景気が回復して、給料や地価が上がっているであろう)6年後とか11年後から金利が上がって返済額が大幅に増えるローンでした。
しかし、日本はそのまま「失われた20年」大デフレ時代に突入し、給料も不動産価格も上がらずに、逆にリストラや企業倒産が相次いで収入を維持することすら難しくなりました。
不良債権問題
1997年11月3日三洋証券、同月15日北海道拓殖銀行、同月22日山一証券が連続破綻し、1998年10月長銀、12月日債銀が破綻しました(※注7)
しかし政府は1995年の住専問題がトラウマになっており、ギリギリまで「公的資金」という伝家の宝刀を抜くことができませんでした。
実際に破綻してから、日債銀には公的資金が投じられ、拓銀と山一には日銀特融が実施されました。
長銀には公的資金が投入されたたのち、2000年に外資系ファンドに売却されましたが、条件の中に「今後発生する不良債権による損失は政府が保証する」という瑕疵担保条項があったため、国民から大きな批判を浴びました。
大蔵省接待汚職事件
1997年に発覚した第一勧業銀行(現みずほ銀行)の総会屋に対する利益供与事件は国民感情を逆なでする事件の一つでした(※注8)
当時頭取だった奥田正司氏が大物総会屋の小池隆一氏に対して、十分な担保もないまま株や不動産の購入代金として117億円もの迂回融資をおこなっていました。
ところが、第一勧銀は大蔵省の金融検査で発覚することを恐れ、検査官を接待漬けにして手心を加えてもらっていたのです。
のちに大蔵省を解体へと導く大スキャンダルに発展しました。
感想
当時、事件をニュースで見たはずなのですが、「権力をかさに悪いことをしていた人がいる」くらいにしか理解していませんでした。
改めて学んでみると、大蔵省が解体したり、新たな制度ができたりしたきっかけとなる大きな事件ばかりでした。
高度経済成長期の好景気の裏でまかり通っていた悪事が、バブルをきっかけとした不景気の中で白日の下にさらされてしまったのですね。
年配の方々が「昭和の頃はええかげんだった」と言っていましたが、バブル崩壊のような事件が起きて、潮流が変わっていくものなのだなぁと感じました。
出来事と日銀の政策金利を年表にしてみると、失われた10年とも言われる平成の大不況を招いたのは、日銀の政策金利の失敗だったことがよく分かります。
私たちは「なぜ不景気になっているのか」分からず(分かろうとしなかったことがいけないのですが)、そのはけ口として政治の転換を求めるようになってしまうメカニズムを改めて実感しました。

