なぜ日本は大東亜戦争へと向かったのか。国民世論は長期停滞のトラウマから抜け出せないまま、間違った情報により、日米激突へのレールをまっしぐらに進んだ。
すべてを失った敗戦から復活し、高度経済成長を成し遂げた日本を、再びバブル経済の暗雲が襲う。

経済で読み解く日本史⑤ 大正・昭和時代
出版社: 飛鳥新社
発売日:2019/5/24
単行本:280ページ(全6巻1656ページ)
著者:上念 司
1969年、東京都生まれ。中央大学法学部法律学科卒業。
在学中は創立1901年の日本最古の弁論部・辞達学会に所属。
日本長期信用銀行、臨海セミナーを経て独立。
2007年、経済評論家・勝間和代氏と株式会社「監査と分析」を設立。取締役・共同事業パートナーに就任(現在は代表取締役)。
2010年、米国イェール大学経済学部の浜田宏一教授に師事し、薫陶を受ける。
金融、財政、外交、防衛問題に精通し、積極的な評論、著述活動を展開している。
この本を読むきっかけ
ハウツーやハックといった実用書を好んで読んでいましたが、それなりのレベル感の本(初心者を対象にしていない)を読むにつれ、著者がフツーに使用する歴史的エピソードや逸話、語彙・表現などが私には分からないことが多すぎて知識がないことにショックを受けました。
仕事上の知識獲得のためいつも選ぶジャンルである「経済」に加えて、これから学びたいと思っている「歴史」が一緒になっているタイトルでこの本を選びました。
上念さんはメディアでよく拝聴・視聴させていただいていたこともあり「入りやすいかな」と思ったのもきっかけです。
しかし、

第二次世界大戦前夜の世界経済
金本位制への復帰
- 1919 アメリカ
- 1924 ドイツ
- 1925 イギリス
- 1928 フランス
- 1930 日本
第一次大戦が終わった後も、経済的に火種を残したまま各国は金本位制に復帰していきました。
フランスが金本位制に復帰すると、日本における「金解禁論争」が本格化します。
内閣総理大臣 浜口雄幸と大蔵大臣 井上準之助(浜口内閣1929-1931)は、「明日伸びんがために、今日縮むのであります」といった清算主義的な思想で、金解禁を断行、より深刻なデフレを招く失政を行いました。
- 旧平価解禁派:
-
- ブローカー(経営危機や倒産の会社の合併などが仕事なので大型倒産であるほど実入りが増える)
- マルクス経済学信者
河上肇「恐慌の原因は生産過剰にある」「物価が上がっても給料が上がらないので庶民の生活は苦しくなる」 - 清算主義的な意見を持つ人
ショック療法によって財際整理を図らなければ、日本企業はいつまでたっても世界に通用しない
- 新平価解禁派:
-
- 通貨の安定
旧平価解禁による円高はかえって通貨の安定を損なう - デフレ
旧平価解禁によるデフレは、新平価解禁によるインフレより害が大きい - 体面の問題
列強に追随する必要はなく、日本の国内事情を優先すべし - 不景気
不景気による淘汰でより大きく成長するなら、ずっと不景気にし続ければもっと大きく成長するのか?
- 通貨の安定
しかし、1930年1月大蔵大臣 井上準之助が金本位制復帰を強行しました。
(1929年12月 ウォール街株大暴落の翌月)
金本位制が“世界的な金融危機”を引き起こす
昭和恐慌
日本が金本位制に復帰すると、すぐさま株価が大暴落、デフレが深刻化し、歴史上最悪の大恐慌「昭和恐慌」が始まります。
「身売り」「間引き」が横行し、世の中がすさんだ雰囲気になっていき、軍人たちによるクーデター事件の遠因になります。
金本位制離脱
金本位制に復帰したことで、1931年5月にオーストリア最大手「クレディト・アンシュタルト銀行」がデフレ型倒産にいたると、カウンターパーティ・リスクが顕在化し、連鎖倒産を引き起こしていきます。
資金の持ち出しに合わせて金(ゴールド)が流出したとき、できることは2つしかありません。
① 減少した金の量に合わせて貨幣量を減らす → 強烈なデフレ圧力
② 金との交換を停止してしまう → 金本位制離脱
1931年9月、イギリスは金本位制から離脱すると、投機アタックの矛先が日本に向かってきました。
金本位制から離脱すれば大幅な円安になることが確実です。いまのうちに高く円を売って、安くなってから買い戻せば大きな利幅が取れるわけです。
井上準之助蔵相はこの動きに対して、当初は「通貨防衛」に走りましたが、まったくうまくいきません。
イギリスが金本位制から離脱してからの円売りドル買い残高は1週間のうちに2億円を超えました。
そもそも投機アタックで儲かってしまうような「金本位制の制度上の欠陥」こそが問題なのです。
1931年12月に閣内不一致によって第二次若槻内閣が総辞職し、次の犬養内閣の蔵相 高橋是清は即日、金本位制から離脱しました。
再離脱すると、為替レートは1ドル2円から1ドル5円まで大幅に下落し、物価と株価は上昇、失業率は下がり始めました。
しかし、実際に貨幣量を増加させる政策がなかなか実施されなかったために、人々のインフレ期待は数カ月で萎んで、物価も株価も元に戻ってしまいました。
1932年5月に「五・一五事件」が起きて犬養毅は暗殺されてしまいました。
1932年11月、高橋蔵相は日銀による歳入補填国債の直接引き受けが始まりました。「日銀が国債を直接引き受けて市中にマネーを供給することによって、貨幣量そのものを増量する」という政策が実現したのです。
この政策はあくまで貨幣量が今後も増えていくという「期待」の形成がメインであって、国債の直接引受によって得た財源で行った財政政策はオマケです。
井上蔵相時代に大きくマイナスになった株価と物価は、高橋財政が始まって1年程すると本格的に上昇し、実体経済にも良い動きが出てきました。
日本経済は1931年を転機として、その2年後の1933年ごろには様々な経済指標がほぼ恐慌前の水準まで回復しました。
ブロック経済の誕生
世界各国は金本位制から離脱すると、物価が持ち直してきました。
イギリスが金本位制を停止すると同じように金本位制から離脱して、自国通貨をポンドにリンクする国々が現われました。ブロック経済(スターリング=ブロック)の始まりです。
オーストリア、ニュージーランド、アフリカ連邦、インドといったイギリス植民地で、ポンドを外貨準備としてロンドンの銀行に預け、これまで通り貿易決済を行いました。ポンドは金本位制を離脱して切り下げられていたので、これらの国々も恩恵を蒙ることができました。
ブロック経済を構成する国が外貨を獲得すると、イギリスは資本収支が黒字になります。
ヒトラーの誕生
ドイツは、金本位制を離脱したにもかかわらず、実際に貨幣量を増加させる政策を一切実施しなかったばかりか、デフレを深刻化させる緊縮政策を採りました。
「ドイツ経済はあまりにもボロボロなので賠償金は払えません!」という外交上の主張を展開するために、経済政策が利用されてしまったわけです。
恐慌の深化によってますます窮乏してくると、これまで見向きもされなかった危険な思想に支持があつまります。この時期大衆の人気を博したのはナチスと共産党でした。
共産党が躍進するとドイツ資本家を粛清させる可能性があり、けん制するためにナチスを中心とした内閣を画策しヒトラーが首相に就任しました。その後はすべての権力がナチスに集中していきました。
二・二六事件と「やってはいけない政策」
1935年ごろになると経済は安定軌道に乗っていると考えられるようになりました。
1935年7月、高橋蔵相は翌年から緊縮財政に舵を切ることを計画していました。しかし、軍事支出の増額を希望する一部の過激な軍人はそれを良しとしませんでした。
1936年2月、過激な思想に染まった青年将校によって高橋蔵相などが暗殺されてしまいました(二・二六事件)
この後成立した廣田弘毅内閣において「軍部大臣現役武官制」が復活し、軍は内閣を潰す力を得ました。
1936年3月、馬場蔵相は「国債の日銀直接引受」という制度を悪用し、インフレをまったく考慮せず、大量の国債を発行しました。そしてその財源を惜しみなく軍事費につぎこみました。
経済は成長しないのに物価だけが上がるという悪性インフレに陥り、人々の生活は困窮し、危険な思想が支持を集めるようになります。そして究極のポピュリスト近衛文麿首相が誕生し、「日独伊三国同盟」を締結しました。
日米激突の真相
1932年に就任したアメリカのルーズベルト大統領は、1933年に金本位制から離脱、恐慌脱出のために財政支出を拡大させニューディール政策を実施し、1936年まで経済は回復期にありました。
ところが1937年、ルーズベルト大統領は財政赤字の拡大に恐れ突如緊縮財政に転換、同タイミングでFRBも金融引締めに動き、1938年には失業率は跳ね上がり、経済成長もマイナスに転じました(ルーズベルト恐慌)
人々は困窮すると普段は見向きもされない過激な思想に救済を求めます。
日独と英米を激突させ、消耗したうえで背後から襲うつもりのソ連は、情報機関などを使ってアメリカに「日本が世界征服の野望を企んでいる」と挑発することに成功しました。
1930年「ロンドン海軍軍縮条約」が成立すると、内容の一部を野党が政争の具として利用して「軍令部の反対を無視して政府が兵力量を決定したのは天皇の統帥権を干犯するものである(統帥権干犯問題)」とし、それに呼応して軍が政治への介入を深めていきました。
ついに1941年12月8日、山本五十六が真珠湾攻撃を決行し、アメリカ人の復讐心に火をつけました。
無能な指揮官による”勝つ見込みのない戦い“が遂行され、日本は存亡の危機に立たされたのでした。
日本の戦後復興
1945年8月14日、日本は「ポツダム宣言」を受諾しました。
日本はドイツと違って軍が無条件降伏しただけで、政府は存続していました。
終戦と同時に、アメリカ軍が進駐してきますが、アメリカはあくまでGHQ(連合国最高司令官総司令部)を通して、日本政府に「アドバイス」するだけであって、ドイツのような連合国による軍政や分割統治は行われませんでした。
とはいえ、その「アドバイス」が、天皇陛下や国民を人質に取り、核兵器による脅迫を伴ったものであったことは教科書に書いていない歴史の真実です。
敗戦直後から日本政府は「大量失業」と「物資不足」という困難な問題に対処しなければなりませんでした。
この時期の経済政策の状況を物価から眺めると、次の3つに大別することができます。
① 終戦直後から1947年秋まで「インフレ加速期」
② 1947年秋から1949年秋までの「インフレ減速期」
③ 1949年秋から1950年秋に朝鮮特需が始まるまでの「デフレ期」
「公定価格」と「闇市価格」の乖離
① 終戦直後から1947年秋まで「インフレ加速期」
戦後処理の為に財政支出が拡大し、日銀による銀行への資金供給も拡大したため、貨幣量が大幅に増えてインフレになりました。
GHQは価格統制を強化すべしと「アドバイス」してきましたが、うまくいくはずがありません。そのひずみは「公定価格」と「闇市価格」の乖離というかたちで表れました。
人々は闇市で売った方が高く売れるものは隠匿して表に出そうとしません。それが売り惜しみのような状況をつくりだして、ますます物資の不足を招いてしまうわけです。
「東京地検特捜部」はこの隠匿物資を摘発するために作られた組織でした。
業を煮やした政府は1946年2月にインフレ対策を発表します。
翌日から金融緊急措置が実施され「旧円から新円への切り替え」と「預金封鎖」が行われました。
闇市などで流通している旧円はこの日を境に通貨としての価値がなくなってしまうため、地下経済は地上に出てこざるを得なくなりました。
- 旧円紙幣は3月2日をもって廃止
- 交換期間は2月25日から3月7日で、銀行を介して交換すること
- 2月17日預金封鎖
- 封鎖された預金からの引き出しは毎月世帯主300円、世帯員一人につき100円(3月30日からは一律一人100円)に制限
1946年第一次吉田内閣が成立し、石橋湛山が蔵相となると、積極的な財政政策によって日本の供給力を高める政策が実施されました。
闇市場へのインセンティブをつくっている価格統制をより柔軟に運用し、闇市価格より安く設定されていた公定価格を調整するための価格調整補助金を増額しました。
そして、復興金融金庫を設立、不足していた投資資金を大量に貸し出せる体制を整備し、不足していた鉄鋼の生産とエネルギー確保につとめました(傾斜生産方式)
復興金融公庫は貸出の7割を復興金融債(復興債)の日銀引受に頼っていましたので、融資を増やした分だけ貨幣量が増加することになります(復金インフレ)
占領政策の大転換
② 1947年秋から1949年秋までの「インフレ減速期」
このころ世界各地で米ソの勢力争いが激化してきました。
世界全体が冷戦構造に組み込まれていくなかで、日本はアメリカから東アジア地域の“赤化”を防ぐ橋頭保として意識されるようになり、冷戦構造の激化により、日本弱体化ではなく、日本経済復興をさせなければいけなくなります。
1947年にインフレ抑制のための「経済安定九原則」を実施するよう「アドバイス」してきました。
さらにアメリカはこの9項目に加えて「単一為替レートを速やかに設定すること」を大原則とすると伝えてきたのです。しかもこれらと引き換えに多額の対日援助が実施されることになりました。
トルーマン大統領は、ドイツの経済安定化で辣腕を振るっていたデトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジをGHQの財政顧問として送り込んできました。
③ 1949年秋から1950年秋に朝鮮特需が始まるまでの「デフレ期」
1949年来日したドッジは日本政府に対して「超均衡予算」「復金融資の停止」「価格差補給金の停止」をアドバイスしました。
そして超緊縮予算に作り替えられ、ほとんど無修正のまま国会で成立してしまいました。
予算成立後、GHQは1ドル360円の公定為替レートの使用を指令し、4月から実施されました。これは当初日本側が想定していた1ドル300円よりもかなり円安な為替レートでした。
この割安な為替レートこそが、その後の日本の高度経済成長を支える大きな要因の一つになりました。
ブレトン・ウッズ体制
第二次世界大戦終結後、金本位制が経済の不安定化を招く」という反省に基づき、世界経済は旧来の金本位制に復帰することはありませんでした。
新しい通貨体制においては、まずアメリカドルを「基軸通貨」と定め、アメリカドルに限って1オンス=35ドルの金との交換レートを設定します。
そして、その他の国は自国通貨のドルに対する固定レートを定めます。
こうすることによって、アメリカ以外の国々は金の保有量に縛られることなく、ドルと自国通貨の関係だけを考えればいいことになります。
具体的に言えば、金を保有していなくても、ドルさえ保有していればその上限まで自国通貨を発行できるわけです。しかも、固定レートを維持する限り、金との兌換もドルを通じて間接的に保たれています。
金本位制が持つ信頼感を維持しつつ、金(ゴールド)不足によるデフレを回避するという画期的な発明でした。
朝鮮特需
1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカは地上軍の増援を決定、7月から大々的な物資調達が始まりました(朝鮮特需)
朝鮮特需によって大量のドルが日本に流入することは、日本円をそれに合わせて増刷しなければならないことを意味します。つまりドッジの「緊縮政策」から、なし崩し的に「緩和政策」に転換してしまったのです。
それまで瀕死の状態にあった日本の産業が一気に復活しました。
1950年から1952年まで日本の経済成長率は10%を超えました。
1956年、日本のGDPは戦前の1940年のGDPを上回り、経済白書の序文において「もはや戦後ではない」と宣言しました。
高度経済成長の実現
1958年に転機が訪れ、GDPが、設備投資の額を下回るようになりました。
1956年までが戦後復興の時期であり、1960年へと近づくにつれ、それまでのビジネスモデルが通用しなくなってきました。
1950年からの朝鮮特需を経て急拡大した日本企業には、以下の3つの弱点がありました。
- 少なすぎる内部留保
- 多すぎる借入金
- 民間銀行の日銀依存
こうしたビジネスモデルは、生産設備が過剰になってしまうと収益率が低下し、企業の経営は悪化していきます。
このような状況を当時の官庁エコノミストの大ボスである都留重人などは「不健全な異常事態」であるとみなしていました。
これに対し、大蔵官僚の下村治(のちの池田勇人首相の経済顧問)は、「経済成長が堅実な生産能力の増強によって支えられている限り、通貨の均衡が破れたとしてもインフレは起こらず、起こったとしても国民生活の高度かを意味するものである」と確信していました。
日銀がオーバーローンだと問題視している点について、民間部門が以上な投資行動をしたのではなく、政府や日銀が通貨価値の安定にこだわって引き締め気味のバイアスがかかっていることが原因だと考えました。
「通貨価値の安定は、経済の健全な発展にとって、必要な条件ではるけれども、十分な条件でない」と述べています。通貨価値の安定は、経済成長の“手段”であって“目的”ではないのです。
また下村は、技術革新によって生産性は高まり、日本は2ケタ成長を維持できると考えていました。
ところが都留重人はじめとした官庁エコノミストたちは反対しました。
1958年に下村が発表した「経済成長実現のために」という論文は、後に首相となる池田勇人の目に留まります。池田は首相就任の前年に「月給倍増論」を表明し、下村のアイデアを全面的に採用しました。
1960年に成立した池田内閣において「国民所得倍増計画」が発表され、結果的に1960年代に平均10%を超える経済成長を実現しました。
感想
金本位制によるデメリットから何度も デフレ→不況(→戦争) を繰り返しているのに、どうしても金本位制にもどってしまう・・普遍神話なのか、世界のスタンダードを変えることができずにいるのか、変わることの難しさを感じました。
今の制度や税制など、戦後のGHQ支配時に作られたものがマイナーチェンジして現在に至っていることを理解しました。なぜこのような制度があるのか?戦後の創設当初まで遡って原点を学び直したいと思うに至りました。

